注文の多い料理店

映画の中で『注文の多い料理店』が『BUNGO〜ささやかな欲望〜』見つめられる淑女たちの第一話で出ていますが、ご存じの通り宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』などと代表する賢治の代表作です。そして、宮沢賢治は生前はほぼ無名の詩人で作家でしたが賢治の生前に唯一出版された童話でもあります。

宮沢賢治の『注文の多い料理店』

童話『注文の多い料理店』は同名の短編集の3作目に収められています。

森に狩猟にやってきたブルジョアの青年二人が、迷った先で一軒のレストラン「山猫軒」を見つけて、入っていくという筋書きになっています。

あらすじ

イギリス風の身なりで猟銃を構えた2人の青年紳士が山奥に狩猟にやってきましたが、獲物を一つも得られないでいました。やがて山の空気はおどろおどろしさを増していきます。山の案内人が途中で姿を消してしまい、連れていた猟犬が2匹とも恐ろしさに泡を吹いて死んでしまっても、彼らは「2千4百円の損害だ」、「2千8百円の損害だ」と言って、表向きの金銭的な損失だけを気にしています。しかし、山の異様な雰囲気には気付いたようで、宿へ戻ろうとしましたが、山には一層強い風が吹いていて、木々がざわめき、2人は帰り道を見つけることができません。途方に暮れたときに、青年たちは西洋風の一軒家を発見します。そこには「西洋料理店 山猫軒」と記されていて、2人は安堵して店内へと入っていきます。店内に入ってみると、「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはごしょうちください。」という注意書きがあることに気づきます。この注意書きを2人は「はやっている料理店で、注文が多いために支度が手間取る」という風に解釈します。そして扉を開けると、そこには「髪をとかして、履き物の泥を落とすこと」という旨の注意書きがあるだけでした。それ以後、扉を開けるごとに2人の前には注意書きが現れてきます。中には「金属製のものを全て外すこと」といった少し首をかしげる注意書きもありましたが、「料理の中に電気を使用するものがあって危ないからだ」というように、2人はことごとく好意的に解釈して注意書きに従って、次々と扉を開けていきます。そして、扉と注意書きの多さを2人がいぶかしんだ頃に、

【いろいろ注文が多くてうるさかつたでせう。お気の毒でした。もうこれだけです。どうかからだ中に、壷の中の塩をたくさんよくもみ込んでください。】

という注意書きが現れて、2人顔を見合わせて、これまでの注意書きの意図を察するのでした。これまで、衣服を脱がせて、金属製のものを外させ、頭からかけさせられた香水に酢のようなにおいがしたのは、全て2人を料理の素材として食べるための下準備だったのです。「西洋料理店」とは、「来た客に西洋料理を食べさせる店」ではなく、「来た客を西洋料理として食べてしまう店」を意味していました。気付くと、戻るべき扉は開かずに、前の扉からは目玉が二つ、鍵穴からこちらを見つめています。あまりの恐ろしさに2人は身体が震えて、何も言えず、ただただ泣き出してしまい、顔は紙くずのようにくしゃくしゃになってしまいました。そのとき、後ろの扉を蹴破ってきたのは、死んだはずの2匹の犬がです。犬は先の扉に向かって突進していきます。そして格闘するような物音が聞こえたあと、気付くと屋敷は跡形もなく消えていて、2人は寒風の中に服を失って立っているのに気付くのでした。そこへ山の案内人が現れて、二人は宿へと戻り、やがて都会へと帰っていきましたが、恐ろしさのあまりくしゃくしゃになった顔は、どうやっても元には戻りませんでした。

解釈

作品に出てくる2人の青年紳士は、身なりこそイギリス風をまとって洗練されている様相ですが、死んでしまった犬を前にして、金銭でその価値を計ったりしていて、心性の卑しい人物として描かれています。彼らは、山猫軒での数々の「注文」を、全て自分たちに都合のいいように解釈します。そして、危機感を覚えることなく自ら山猫(とは明示されていない)の前に、無防備に身を投げ出してしまいます。彼らが最後の段になって恐れおののいて、顔をくしゃくしゃにしてしまうのは、自然を軽視する人間の傲慢さを現していますが、いったん死んでしまって、青年紳士が無情に見捨てたはずの犬によって救われるというのは、大いなる皮肉であり、冷淡な扱いを受けようとも救いの手を差し伸べる自然を体現しているとも考えられています。

刊行の経緯

短編集としての『注文の多い料理店』は、1924年(大正14年)に、盛岡市の杜陵出版部と東京光原社を発売元として1000部が自費出版同様に出版されました。発行人は、盛岡高等農林学校の1年後輩にあたる近森善一となっています。挿絵には岩手在住の図画教師、菊池武雄が描いた挿絵になっています。定価が1円60銭とその当時の映画入場料は30銭ほどだったことを考えると、比較的高価ということもあり、ほとんどが売れ残りました。本書の出版は賢治のほかにも、発行人となっている近森、そして近森の出版業を手伝っていた及川四郎(近森とは盛岡高等農林で同窓)の3人で進められました。近森は農業の実用書を刊行してある程度の成功を収めていて、その利益をつぎ込む形で親交のあった賢治の童話を刊行しようという話になりました。

当初は1924年春に刊行を予定していて、そのときの書名は『山男の四月』でした。しかし、刊行が延期されて、その間に収録作品と配列の確定、書名の変更があったことが残されたいくつかの資料(広告はがき、チラシ)からうかがうことができます。『注文の多い料理店』という書名は及川が強く推したのに対して、他の2名は当初は「飲食店を対象とした商業テキストと誤解されるのではないか?」という理由でためらったと、及川は後に記しています。そしてこの懸念は不幸にも的中するになりました。また、発売元の「東京光原社」という版元の名前は賢治の命名といわれちえます。この間に、近森の資金繰りが悪化したこともあって、最終的に賢治は刊行された本のうち200部を自費で買い取っています。

比較的高価な本ということもあり、商業テキストとも思われたこともあって本は売れませんでした。挿絵を描いた菊池武雄は、知人で『赤い鳥』の挿絵を描いていた画家の深沢省三のつてをたよって、同誌に広告を掲載してもらったりもしましたが、売れ行きに影響はありませんでした。また『赤い鳥』を主催していた鈴木三重吉は賢治の作品を全く評価しなかったと伝えられています。及川は売れ残った本を、近所の子どもたちにかけっこをさせて順位に関係なく配ったりしていました。盛岡の杜陵出版部(光原社)は及川が引き継いで、後に民芸品店に転業しましたが「光原社」の名前で及川没後の現在も営業を行っています。及川は戦後、敷地に「宮澤賢治 イーハトーヴ童話 注文の多い料理店 出版の地」(原文)と記した記念碑を建立して、その記念碑は現在も見ることができます。また2006年(平成18年)4月から同社の敷地内に本書の刊行などに関する資料を展示した「マジエル館」が開設されています。杜陵出版部(光原社)は1947年(昭和22年)に『注文の多い料理店』B6版を復刻していますが、軍事色の強かった『烏の北斗七星』は全文が削除されていました。そのほか3番目に収録されている童話『注文の多い料理店』は、日本の敗戦直後に行われた GHQの検閲でひっかかてしまい、物語の冒頭の「すっかりイギリスの兵隊のかたちをして」という部分が削除されてしまったことが知られています。

収録作品

  • 『どんぐりと山猫』
  • 『狼森と笊森、盗森(おいのもりとざるもり、ぬすともり)』
  • 『注文の多い料理店』
  • 『烏の北斗七星』
  • 『水仙月の四日』
  • 『山男の四月』
  • 『かしわばやしの夜』
  • 『月夜のでんしんばしら』
  • 『鹿踊りのはじまり』

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