賢治の評価と恋愛

賢治は生前には評価されませんでした。生前に刊行された唯一の詩集には『春と修羅』があり、童話集として『注文の多い料理店』があります。生前に雑誌や新聞に投稿・寄稿した作品も少ないのですが、『やまなし』『グスコーブドリの伝記』などが存在しています。ただ、賢治が受け取った原稿料は、雑誌『愛国婦人』に投稿した童話『雪渡り』で得た5円だけだったといわれています。生前には、ほぼ無名ではありましたが、注目されていたという経緯もありましたので、賢治が亡くなった直後から、主に草野心平の尽力によって多数の作品が刊行されました。最初の全集は(作品全体からは一部の収録)早くも死去の翌年に文圃堂より刊行されて、続いて文圃堂から紙型を買い取った十字屋書店がそれに増補する形で1939年(昭和14年)~1944年(昭和15年)にかけて出版しています。戦後は筑摩書房から(文庫判も含め)数次にわたり刊行されています。

賢治の作風

宮沢賢治の作品世界を広く覆っているのは、賢治が生まれた裕福な出身と、郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ贖罪感や自己犠牲精神です。

また幼い頃から親しんだ仏教も賢治の作品に強い影響を与えています。その主な契機として、浄土真宗の暁烏敏らの講話・説教が挙げられますが、特に18歳の時に同宗の学僧島地大等編訳の法華経を読んで深い感銘を受けたと言われています。この法華経信仰の高まりによって、賢治は後に国粋主義の法華宗教団国柱会に入信しますが、法華宗は当時の宮沢家とは宗派が違うということもありで、代々浄土真宗として門下として宮沢家の宗派の違いは、父親との対立を深めることになりました。賢治の弱者に対する献身的な精神と強者への嫌悪などの要素は、これらの経緯と深い関わりがあると思われます。また、良き理解者としての妹トシの死が与えた喪失感は、トシの死以後の作品に特有の陰影を加えました。特筆すべきことの1つとして、賢治の特異で旺盛な自然との交感力です。それは作品に極めて個性的な魅力を与えています。賢治作品の持つ圧倒的魅力は、この天性を抜きには説明できないでしょう。また、童話作品では擬声語(オノマトペ)を多用していて、作品によっては韻文にも近いリズム感を持った文体を使用したことも大きな特徴になっています。賢治の童話は同時代に主流とされた『赤い鳥』などの児童文学作品とはかなり異質なものでもありました。

賢治の作品には世界主義的な雰囲気があり、岩手県という郷土への愛着はありますが、軍国的要素や民族主義的な要素を直接反映した作品はほとんどみられません。賢治は24歳に国柱会に入信してから、時期によって活動・傾倒の度合いに差はありますが、宮沢賢治は生涯その一員であり続けたので、その社会的活動や自己犠牲的な思想について当時のファシズム的風潮との関連も議論されています。また、当時流行した社会主義思想(親友・保阪嘉内など)やユートピア思想(「新しき村(武者小路実篤)」、「有島共生農場(有島武郎)」、トルストイ・徳富蘆花、「満州・王道楽土(農本主義者・加藤完治や、国柱会の石原莞爾)」など)の社会思潮の影響を考えるべきでは。という見解も見られます。

晩年には遺作の『銀河鉄道の夜』に見られるようにキリスト教的な救済信仰をも取り上げているので、全人類への宗教的寛容に達していたことが垣間見られます。宗教学者からは、賢治のこうした考え方の根本は、法華経に基づくもの。と指摘されています。戦後は賢治の生き方や作品にみられる人文主義や平和主義的側面が注目されていて、特に近年は環境運動思想とも関連づけられて高く評価されることが多くあります。賢治は、いったん完成した作品でも徹底して手を加えて他の作品に改作することが珍しくありませんでした。。この点から賢治は「最終的な完成」がない【特異な創作概念】を持っていたという見方があります。

宮沢賢治が書き残した『農民芸術概論綱要』でも「永久の未完成これ完成である」という記述があります。多くの作品が死後に未定稿のまま残されたこともあって、作品によっては何度もの修正の跡が残されているので、全集の編集者が判読に苦労するケースも少なくありませんでした。そうした背景から、原稿の徹底した調査に基づき逐次形態をすべて明らかにする『校本 宮澤賢治全集』(筑摩書房、1973~77年)が刊行されて、作品内容の整理が図られました。草稿調査によって賢治の遺稿は、ほぼ調べ尽くされたと見られていましたが、生家の土蔵から未発表の詩の草稿1枚(地形図の裏に書かれたもの)が発見されたことが2009年(平成21年)4月に公表されました。

賢治は音楽にも深い関心を持っていて、自身の手による作詞作曲の歌がいくつか残されています。代表作「星めぐりの歌」は賢治ゆかりの作品などを通じて現在でも親しまれています。この歌は知人の採譜によって譜面化されたもので、直筆の譜面は存在していません。賢治は自身が学んだエスペラントでも詩作を試みていますが、公表されたのは1953年(昭和28年)です。これらの作品のほとんどは、賢治自らの作品エスペラントへの翻訳で、改作になっています。

恋愛

宮沢賢治は生涯独身でした。でも、性に対して全く無知ということではなく、性科学者エリスの主著を原著で揃えてもいたので、当時の性に関する科学的知識を持っていました。知人の結婚を助力したことも伝えられています。

賢治が独身を貫いた背景として、高等農林の研究生時代に肋膜炎で医師の診断を受けたあとに「自分の命もあと15年ほどしかない」と友人に語ったこともあるので、賢治自身が長生きできないと認識していた可能性も指摘されています。(実際の没年も15年後でした)盛岡中学校卒業後に、岩手病院で入院中に看護婦に恋心を抱いています。農学校退職後の「羅須地人協会」時代に賢治に敬意を抱いた高瀬露は、彼女の没後の1970年代にその名前も含めて公になりました。

1928年(昭和3年)6月に、伊豆大島で農業指導をした伊藤七雄の妹伊藤チヱは、密かに見合いの相手と目されていたともいわれています。(同年春に兄妹で花巻を訪れて賢治とは面識あり)ところが、いずれのケースでも「男女交際」には至らずに終わっています。盛岡高等農林学校在籍時に出会った一年後輩の保阪嘉内との間では、互いに「恋人」と呼び合うような親しい間柄になりました。嘉内に宛てた書簡類では、親密な感情が現れていて、率直な心情の吐露が認められています。手紙に記された文面は、ときには恋人に宛てたような表現になっています。嘉内からは情緒的にも思想的にも強い影響を受けていて、『銀河鉄道の夜』の成立には、20代の頃に嘉内と二人で登山して、共に語り合って夜を明かした体験が濃厚に反映されています。登場人物の「ジョバンニ」を賢治自身とするならば、「カムパネルラ」は保阪嘉内をあらわしていると考える研究者もいます。

2000年代以降には、農学校勤務時代とその後の闘病生活で、関心を寄せていた可能性のある女性の存在が、複数の宮沢賢治研究者よってあげられています。

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