芸術は爆発だ!

「芸術は爆発だ!」の発言や、大阪の万博「太陽の塔」を作り出した芸術家の岡本太郎。その母親の岡本かの子の作品も『BUNGO〜ささやかな欲望〜』告白する紳士たちの一番最初の作品【鮨】の原作者です。岡本太郎が子どもの頃(3~4歳の頃)に、母親が創作活動中の際に気を引こうと創作の邪魔をしたら、太郎をタンスにくくりつけたというエピソードもあり、岡本太郎が後に「母親としては最低の人だった」と語っています。

岡本かの子は歌人でした。活動の後期は仏教研究家としての顔も合わせ持っていました。小説家として実質的なデビューをしたのは晩年です。とてもインパクトのある白塗りの顔と無恥傲慢な性格で、文壇界でもとても嫌われ者でした。豊かな家に生まれながらも、農民へ心を寄せ農民の為に奮闘していた宮沢賢治とまるっきり正反対の人生を歩いた岡本かの子。岡本かの子もお嬢さまとして豊かな家で生まれましたが、けばけばしく身を飾り清貧とは真逆に、自分の欲するままに生きた岡本かの子です。

大地主のお嬢様

かの子は、代々幕府や諸藩の御用達を業としていた豪商の大貫家の別邸で1889年(明治22年)3月1日誕生しました。大貫家は、神奈川県橘樹郡高津村(現川崎市高津区)二子に居を構える大地主でした。腺病質のため父母と別居して大貫家の二子本宅で養育母に育てられますが、この病気は晩年まで続きました。大地主の娘ということもあって、とにかくわがまま放題に育っていきました。養育母から源氏物語などの手ほどきを受けて、同村にあった村塾で漢文を習い、尋常小学校では短歌を詠んでいました。

歌人として

16歳の頃に、「女子文壇」や「読売新聞文芸欄」などに投稿し始めます。筆名は「野薔薇(のばら)」です。この頃谷崎潤一郎と親交のあった兄の大貫晶川の文学活動がはじまったこともあり、谷崎たち文人が大貫家に出入りするようになり影響を受けますが、谷崎は終生かの子を評価せずに嫌っていました。跡見女学校時代に旧友から呼ばれていたあだ名は「蛙(かわず)」です。蛙によく似ているから「蛙」というあだ名の彼女が筆名が「野薔薇」とかの子は名乗るので、同人仲間はただただ驚くばかりでした。17歳の頃に、与謝野晶子を訪ねて手ほどきを受け「新詩社」の同人となって、「明星」や「スバル」から大貫可能子の名前で新体詩や和歌を発表するようになりました。

岡本一平と結婚

かの子が19歳の夏に、父と共に信州沓掛(現:中軽井沢)へ避暑の際に、追分の旅館油屋に滞在しました。同宿の上野美術学校生を通じて岡本一平と知り合います。21歳の時、和田英作(洋画家)の媒酌によって結婚して、京橋の岡本家に同居しますが、家人に受け入れらなかったため一平とかの子の二人だけの居を構えることになりました。翌年1911年(明治44年)2月26日、長男の太郎を出産しました。赤坂区青山のアトリエ付き二階屋に転居します。

奇妙な夫婦生活

その後は、夫一平の放蕩したり、一平も芸術家というこもありかの子と芸術家同士の強い個性の衝突によって夫婦間もおかしくなります。そしてかの子の兄、晶川が亡くなったことでかの子は大きな衝撃を受けます。絶望するかの子に、一平は歌集『かろきねたみ』を刊行させました。しかしその翌年にかの子母も亡くなり、さらに一平の放蕩も再燃して家計もどんどん苦しくなっていきました。その中で長女の豊子を出産していますが神経衰弱に陥ったため、精神科に入院することになりました。翌年退院すると、一平は放蕩を悔いて家庭を顧みるようになりますが、長女が死去します。かの子は一平を愛することができなくなり、【一平と生涯の夫婦関係を断つこと】を誓います。

そしてそれ実践します。かの子の崇拝者でもあった早稲田大学生の学生、堀切茂雄(一平の了解のもと)と同居するようになります。そして次男健二郎を出産しましたが次男も幼くなくなってしまいました。(長女と次男は堀切の子供とも言われています)堀切も肺を病んで亡くなると、かの子は慶応病院の医師新田亀三と恋に落ち、新田亀三も岡田家に一緒に住まわせました。そしてさらには恒松安夫も弟と嘘をいつわって、同居させます。岡田家には、夫の一平と愛人2人そしてかの子に息子の岡本太郎という、普通では考えられない生活を送ることになりました。

仏教に救いを求める

やりたい放題のかの子としか思えないのですが、一平とかの子は宗教に救いを求めます。プロテスタントの牧師を訪ねますが、キリスト教は【罪】や【裁き】を教えます。ふたりはキリスト教には救いを見出すことは出来ませでした。それから2人は親鸞の『歎異抄』によって生きる方向を暗示されるようになりました。やがてかの子は、仏教に関するエッセイを発表するようになり、仏教研究家としても知られるようになりました。

ヨーロッパへ

1929年(昭和4年)に『わが最終歌集』を刊行して小説を志しますが、12月から一家をあげてヨーロッパへ外遊へいくことになりました。一平とかの子が結婚した当時は、お嬢様で生まれ育ったかの子の「ひも」のような存在だった一平でしたが、夏目漱石にマンガの腕を買われて1912年(明治45年)朝日新聞へ入社して漫画を書き、漫画に解説文をそえた漫画漫文という独自のスタイルを築き、人気を博すことになり大金が入るようになりました。

そして、3月に一家と愛人2人(新田亀三・恒松安夫)も一緒にヨーロッパを外遊しました。太郎は絵の勉強のためそのままパリに残ります。かの子達はロンドン、ベルリンなどに半年ずつ滞在して、1932年(昭和7年)に、太郎を残したままアメリカ経由で帰国します。ちなみに太郎が日本へ帰国する前に亡くなったので、これが太郎との最後の別れになりました。外遊から帰国したからは、かの子は小説に取り組むつもりでしたが、世間はかの子に仏教を語ることを求めたこともあり、仏教に関するラジオ放送、講演、執筆を依頼されて、『観音経を語る』、『仏教読本』などを刊行しました。

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